SFセミナー MISSION完了

SFセミナーから帰ってきました(白山BOXに)。
本会には当会現役生は8人参加。合宿には一年生と五年生が帰ったので、5人残っていたようです。

fuchi-komaは本会+合宿参加しました。前日は例によって忙しく睡眠時間は2時間で、企画の時も緊張していた上に休憩時間には物販ブースがせわしかったので、全体通して緊張しっ放しで、もう疲れるのなんの、でありました。
お陰で合宿の深夜以降は意識が朦朧として曖昧な印象しか残ってません。一応ざくっと記憶を掘り起こして詳細レポ書いてみます。記憶の整理作業。気合入れて長文で。

本会企画1.正しいライトノベルの作り方? ――疾走する作家、桜庭一樹のスタイル

出演:桜庭一樹・スペースK・三村美衣 司会:タカアキラ=ウ
初め桜庭さんが緊張気味でマイクから遠い所で話していて声が聞こえないトラブル有り。桜庭さん、わりと華奢で大人しくて、ちょっと著作のイメージと違う可愛い人である。やはり緊張のせいで萎縮しているのか。富士見書房の名物編集者スペースKさんは面白い人。話し方に余裕が感じられ、器の大きい人のイメージ。この二人を挟んでタカアキラさんと三村美衣さんがお話を伺う構図。桜庭さんのデビューの経緯から順繰りに進み、ライトノベルとして『赤×ピンク』が如何に冒険であったかの話になる。
桜庭さん、東京創元社ライトノベル・レーベルの編集者さんとの性質の違いに驚いたという。当企画の肝はこの辺りであろう。スペースKさんが何度か「少年ジャンプみたいな」と表現する様に、ライトノベルの作り方は著者と編集者の関係など多くの点で少年マンガに近い、というのが的確な「正しいライトノベルの作り方」という事で、案外タイトル通りの企画であったように思う。

本会企画2.異色作家を語る

出演:浅暮三文中村融牧眞司 司会:代島正樹
異色作家のリストを見てもfuchi-komaには殆ど判る人がいない。辛うじてトマス=M=ディッシュ、R=A=ラファティ、J=G=バラード、テリー=ビッスンくらい。駄目駄目です。

異色作家とは何ぞやという話から始まり、各人の「異色作家観」なるものが語られていく。先ず中村融さんが「SFやミステリなどジャンルが確立してからと、それ以前では(当然)異色の意識は異なる。異色作家という括りはそもそも早川書房の『異色作家短編集』シリーズから始まり、これに似た作家をどんどん「異色作家」の枠に入れていったに過ぎない」との体系的な話をすると、牧さんが「僕にとっては正統派のSF・ミステリというのは幾らか食べると飽きが来て、もっと違った味が欲しいと思ってしまう。先が読めない作品の楽しみというのが、異色作家の面白みなんだ」と異色作家の魅力を語る。
これに加えて作家・浅暮さんが影響を受けた作家の話をする。だいたい牧さんと似たような話をしていた気がするが、牧さんの「僕はSFファンだからSFの勉強/研究をするのは好きだけど、でもやっぱり正統派は喰い飽きる」という姿勢に対し、浅暮さんは「単純にこういう方向が好きだと感じたから食べるんだよ」という姿勢。具体的な作品紹介がとても面白く、会場が笑いに笑う。矢張り浅暮さんは楽しい人だ。
各人それぞれのリストから「特にオススメ」というのを幾つか紹介していくが、あまり内容は記憶できず。何れも凄く面白そうだ、読んでみたいと思ってしまうので、個別の印象に意味がない。隣で同輩のF川君がメモをとっていたので私も真似をする。後で見ると殆どの作品に◎が付いている。
この企画、パネラーの話は大いに共感出来る(出来てしまう)が、彼らが「異色」を語る前に多くの「正統」な部分を読んでいる人間だからこそ、その「異色」ぶりを楽しめる、という事を忘れてはいけない。先ずはちゃんと「正統」を読んでいかないとな、と思う。
ところで、中村さんの「日本人は誰もテリー=ビッスンを判っていない。「ふたりジャネット」を理解しているのは100人の内1人、2人じゃないか」という話はショッキングで、胸が痛んだ。あの物語の核心が母親にあったという事、恥ずかしながらfuchi-komaは全く読めていなかった。赤面する。中村さんの言葉は真実を突き、辛辣で、故に大変重みがある。「日本人には失望した。ビッスンを翻訳しても理解されないのでは意味がない。もう僕はビッスンを翻訳しない」との言、fuchi-koma同様に読解出来なかった人間がいたら、三度唱えて心に刻むべきだろう。

お昼休憩 ホール壇上にて山田正紀『神狩り2』刊行記念サイン会

わーい。今年も山田正紀先生のサインが貰えるぜぃ。
昨年のSFセミナーでは山田正紀企画があったので、その際に『神狩り』(ハルキ文庫版)にサインを頂いた。そして今年は重たいハードカバーの『神狩り2』だ。うーん、並べると、感慨もひとしお。こーいうのに弱いfuchi-komaです。

本会企画3.SFファンのお引越し

出演:門倉純一・大野修一風野春樹 司会:牧眞司
SFファン、というか本やAV機器に憑かれた人々の為のお引越し講座。
一件目はサンプル三人の内で最も生々しい大野「月刊アニメージュ」編集長のお引越し。牧さんの言う通り、あれは確かに「惨状」であった。fuchi-komaは現場で作業を手伝ったのでその「惨状」がスライドなどでは判らない、もっと恐ろしい世界である事を知っている。
これは詳細にも書けるが、時間の都合上ある程度割愛する。
何といってダンボール230箱だ。独身男性の荷物の量じゃない。それが全部書籍なのだから、そりゃ引越し屋さんも堪ったものではない。マンションの五階に引っ越した事について「よく五階に引っ越しましたね」「いや、この辺りで適当な価格で、床面積が大きい所にしたんだ」……つまりこの部屋でないと、ダンボールが入りきらないのだ。新居は6畳が4つくらいだったと思うが、fuchi-komaが訪れた時、ある部屋はダンボールで窓の半分くらいまで完全に埋もれていた。完全に、だ。信じ難いが床の面積全てをダンボールが隙間無く占領し、その上に更に二段、三段にダンボールが積まれて、いや詰まれているのだ。恐ろしかった。ラピュタの内部とか、映画『CUBE』を連想してしまう。あるいはゲーム『IQ』。箱が迫って、空間が押し潰される……幻視……悪夢のようだ……。
台所の流しの中にまで本が詰められていた。もちろん料理は出来ない。廊下はダンボール箱の壁のせいで、人がすれ違う事が出来ない。
他の部屋もだいたい本で埋まっていた。本棚は蔵書の極く一部しか収められず、殆どは裸のまま床や本棚の上部に積んである。異世界であった。
この惨状の中でも本人は「まだまだあと3、ん、いや5年は大丈夫じゃないかな。足の踏み場があるもの」なんて言うのだから凄まじい。
二件目の門倉さん。SF業界・AV機器関係の大家であるらしい。スライドに大量のCD・DVD・オーディオ機器が映っていく。7,8年前に引っ越したらしいが、2階+地階の大邸宅を建てコレクションは全て地階に収める。地階には大スクリーンと5.1chの豪華なホームシアターを設け、その隣がコレクションの倉庫と、使い勝手を考え様々な工夫を凝らしている。しかしコレクションの増量ペースを考えると近い将来に収納スペースは埋まり、溢れてしまうという。
三件目は風野さん。SFマガジンのBOOKSCOPEや「サイコドクターぶらり旅」はfuchi-komaもよく拝読する。
風野さんは今年の2月に引っ越したばかり。家を新築するにあたり、業者をしっかり選んで最も良い「本の部屋」を作るところにしたらしい。素晴らしい可動式の本棚を配備し、壁にも本棚を設けた部屋。本人は「ちょっと通路が広過ぎたなぁ。もうちょっと本棚を広くしたい」なんて言ってますが、この広さによって、大野さんの乱雑な世界に比べ実に綺麗で整然とした空間になっています。まだ数年分のスペース余裕がありますが、その後は奥さんを上手く説得して他の部屋に進出、もとい侵食しようと考えているそうです。
牧さんの結論によると、引越しの極意は計画性だそうです。
大野さんの場合、当人のカリスマ性から周囲の人間が手伝ってくれますが、これは効率的でないし、あてにできない。やはり門倉さんや風野さんのようにきちんと計画する事が大事なようです。しかし彼らの部屋もあと数年しかもたない。初めからもっと広く設定するべきだったのかも知れません。しかし色んな事が起こる世の中、そう上手くもいかない気もしますね。

本会企画4.鈴木いづみRETURENS

出演:大森望高橋源一郎森奈津子
かつて一世を風靡した、あらゆるメディアを通じ、その生き方を以って70年代を体現した女性、鈴木いづみを語る企画。
fuchi-koma、企画を知るまで名前を聞いた事もなかった。
鈴木いづみなる女性、モデルであり、舞台や映画に登場する女優であり、作家であったらしい。70年代に活躍したというが、親に聞いても知らぬという。尤もその方面に疎い親であるから期待はしていない。
鈴木いづみ、この機会に初めて読んだが、何だろう、これはfuchi-komaの与り知らぬ世界の印象。企画前に読んだのは『鈴木いづみコレクション3 SF集Ⅰ 恋のサイケデリック』収録中の短篇2編。鈴木いづみの存在は大森望に「ぼくにとってのサイバーパンク」と言わしめるが、表題作の「なんと、恋のサイケデリック!」は氾濫する音楽用語のせいでfuchi-komaにもサイバーパンク小説のように読めた。時代的な情報(とりわけ音楽用語)が、主人公の女の子の主観によって感覚的に語られ、さように過剰な情報を盛り込まれる世界が、歴史の流れを切り取って別の時間へ繋げてしまう悪戯/犯罪者によって混乱していく。曰く言い難い日常描写の絶妙さ(そう思うのはたぶん女の子のセカイとの距離の取り方に起因するのだろう)が素晴らしく、尚且つSF小説として見ても充分に面白い。最後の一行の置き方などは、話の筋のせいもあるが、ハーラン=エリスンを思い出す。
夜のピクニック」は、恩田陸の同名の長篇が先日本屋大賞を受賞してしまい、そちらの方が比較にならぬほど有名になってしまったが、鈴木いづみのも面白い。森奈津子さんはこの本の中で一番好きだと言っていた気がする。これは大森さんの言う通り最もSF色が強い一編である。
で、企画の話だが、実はあまり覚えていない。
この時間はそろそろと疲労夢魔を連れてやって来て、ウトウトしていたのである。
覚えている限りでは、全体として高橋源一郎さんと大森望さんが鈴木いづみ解釈を闘わせていたようであった。fuchi-komaには高橋さんの解釈は今一つ根拠が薄弱な印象論に聞こえ、やや説得力に乏しかった。
森奈津子さんは「鈴木いづみに影響を受けた女性作家を探していたのでしょうが、誰もいなかったらしく、私にお話が回ってきました」と言いながら、自分は高校(かな?)の頃にSFを漁っていたところ最初に出会ったのが鈴木いづみであったという。最初に読んだのはエッセイか何かで、求めているものではなかったのでスルーして、大原まり子さん等に流れていった。そして鈴木いづみのSFを読んだのは今回の企画が回って来てからだとの事だ。
鈴木いづみは確かに面白い。だが、70年代を知らない私には、ただ普通のニューウェーブを読んでいる感覚しかない。それで良いのだろうか。良いのかも知れぬ。この辺りは、いずれ鈴木いづみの熱烈なファンである(らしい)鈴木力さんにでも訊いてみるとしよう。


今日はここまで。合宿のレポートを明日上げられれば良いのですが、時間があるかどうか。事細かに書き過ぎたかな? これがfuchi-komaのやり方です。